-シノヤマさんに撮ってもらうのは、どんな気分ですか?
「とてもリラックスして撮影してもらえる、構えなくてすむんです。篠山さんに測られている距離が心地良いんだと思う。人との付き合いは距離だと私は考えています。愛だって、距離の問題。私は人と向き合った時、その相手をちゃんと見ていたいから、篠山さんがちゃんと見える距離が大切で、それを作ってくれるので楽なんだと思う。」
彼女がそう答えると、すかさず中森明夫が大胆な質問を放つ。
「でも、恋愛した場合、距離をなくしたい、ピッタリくっつきたいって思わないかな。たとえば、篠山さんと恋愛関係になって撮られるとしたら、柳さんの言う距離感は変化しませんか」
「どこまで近づいても、距離はあると思う」と答え、それに続いて柳は中森を上回る刺激的な発言をした。「くっつき過ぎたら、顔でもなんでも見えなくなりますよね。私、セックスをしている時でも、顔を見ていたい。だから、やっぱり距離が大事なんです」
篠山も含め彼女以外の全員が、オオオゥというような意味不明の唸り声を出したが、柳美里は冷静な顔つきで続ける。
「私がここにいるという事実は消せない。篠山さんは、そのことだけを認めて写真を撮る。無理やり形を押しつけない。そして、何年後にかはわからないけれど、この世からいなくなる。その事実も彼は認めているんだと思います。つまり、いると同時にいないことも撮る。不在を撮れる唯一の人なんです」
-不在を撮る・・・・・・。具体的にイメージしにくいんですが。
「たとえば、三島由紀夫の家を撮った写真が典型です。彼はもうこの世にはいない。そして、その人が住んでいた家を篠山さんが撮ると、ただ、いない、っていう感じになる。不在であることに過剰な意味がくっついた写真にならないんです」
すぐには理解できない。だが、篠山の写真を眺めてじっと考えているうちに、ジワジワとわかってくるかもしれないという気がする批評だった。
-それは、一瞬を固定する性質を持った写真というメディアそのものにも、関係することですか?
「そうかもしれない。昔よく、写真は魂を奪うとか、撮られると寿命が縮むとか言われたでしょう? 私はあれ本当のことだと思う。写真の中の私は、当たり前のことですけれど息をしていない。きちんと殺されているんです。それが気持ちいい。それは篠山さんだからです。緊張させず、うっとりともさせずに私の姿を写しとってくれるので、きれいに息の根が止まる感じがする。一回殺されると、私の中で区切りになるんです」
-殺されて区切りというのは、つまり新しい展開が撮影後に生じるという意味?
「ええ。おかしいんですけれど、篠山さんに撮影してもらうと、そのあと仕事やその他の事柄がリニューアルされる気がします。というか、区切りをつけるころになると、篠山さんに不思議と撮ってもらいたくなる」
七回も撮られたんだから、今度はいっそヌードも披露して写真集にしましょうよ、などと軽はずみな提案をしながらも、私は柳美里の言葉にズシリとした重みを感じていた。きちんと殺す。字面としては相当に物騒なこの表現も、彼女が口にすると奇妙に納得できる印象になる。殺人者・篠山紀信。
考えてみると、篠山はこの三十年間、それこそ時代を区切る死と密接に関わりを持ってきた。三島由紀夫が死ぬ直前に、切腹ポーズの彼を撮ったのも、銃撃される直前のジョン・レノンを写したのも、彼だった。
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